最後のさよならを、もう一度。「シン・エヴァンゲリオン」劇場版 感想
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の公開から二週間。二回視聴し、ようやく自分の中でまとまってきたので、今回はその感想記事。8年待った。その思いを語ります。
※ネタバレ注意!!食らっても責任は取りませんので、悪しからず!
色々と語りたいことはある。考察とか、シーンの意味とか、演出の妙とか、声優の圧倒的な演技とか、宇多田ヒカルの楽曲の良さとか、色々。だが今回は、あくまで「エヴァ」の物語に絞って書いていこうと思う。
25年続いたエヴァの物語は、どこを目指していたのか?そういった話だ。
・「繰り返し」の物語
エヴァンゲリオンは繰り返しの物語だ。主人公である碇シンジ少年(14)が、エヴァという兵器に乗り、「戦うか」「戦わないか」ひたすらに葛藤する。それはもう、何度も。
未だ14歳の少年であるシンジにとって、エヴァに乗ることは唯一の「他人から認められる手段」だ。もとより父に捨てられたトラウマを持つため、鬱っぽい性格のシンジは、そこにしか自分の価値を見出せない。
「序」では、父の命令により乗るしかなかったエヴァ。
「破」では初めて自分の意志で乗り、成功を掴みかけたエヴァ。
しかし「Q]では、その成功が自分の勘違いだったと知らされ、自暴自棄で乗ったエヴァ。
今までシンジがエヴァに乗るときは、鬱になったり、あるいは激高したり、それこそ反抗期の子供の様に感情を発散させて乗ることがほとんどだった。
だが、今回の「シン・エヴァンゲリオン」では、シンジは非常に落ち着いた、どこか達観した空気でエヴァに搭乗する。
この25年間で初めて、少年が「一人の大人」としてエヴァに向き合った瞬間。恐らく多くの視聴者が、「思春期の自分」を重ねたのではないだろうか。そしてシンジがここにたどり着くまでの過程が、本当に素晴らしかった。
・「14年」の意味
「破」と「Q]の間には、14年の時間があった。が、その14年で実際に何があったのかは、視聴者(とシンジ)には一切知らされなかった。
「Q」の公開から8年。ようやく明かされた真実は、
・シンジが世界を滅ぼす「鍵」になってしまい、実際に世界が滅びかけている事
・旧友たちは生きており、シンジを置いて既に大人になってしまったこと
・そして父であるゲンドウが、たった一つの願いの為に、再び世界を滅ぼそうとしていること
だった。「Q」のラストから精神を病み、失語症になってしまったシンジ。冒頭30分ほど、全く言葉を口にしない。
ようやくたどり着いた人の生存する集落。再開する、大人になった元クラスメイト達。
ケンスケ、トウジ達も再登場する。が、誰も黙ったままのシンジを責めない。見守って、声をかけてくれる。そこにあったのは14年前の「友達」としての関係性ではなく、「見守る」大人と「見守られる」子供の関係。
これこそが、スキップされた「14年」の目的だ。1998年の「旧劇場版」では、シンジは大人になることなく、そのまま世界が滅び去ってしまった。そのリメイクたる「新劇場版」は、どうしてもシンジを大人にする必要があった。そうでなければ、再びエヴァを作る意味がない。その為の、14年。
現実と同じように、周囲の人々が先に大人になる。その姿を前に、シンジも否応なしに大人としての在り方をそこに感じ取って行く。
シンジ「どうして皆、、僕に優しくするんだよ!!・・僕のことなんか、ほっといてほしいのに・・っ!!」
レイ「あなたのことが、好きだからじゃない?」
今作のセリフの中に、「他人の意志を受け取れるのが大人」というセリフが登場する。
自分のことで一杯になり、他人を顧みないのが「子供」。
他者の思いを受け取り、行動に変えるのが「大人」。
レイの思いを受け取り、旧友たちの行動を見て、自然とシンジは立ち直る。
(勿論、その前にアスカの荒療治がすべてのきっかけだ。それも「あなたのことが好き」だから。)
レイ「もっと、ここにいたかった。ありがとう。・・さよなら」
14歳の少年が主人公であるのに、少年が成長する姿を描かなかった。描けなかった。それが「旧作」の心残り。だからこそ、「シン」では少年が大人になる所まで。
飛ばされた14年は、8年待った視聴者たちとリンクする。もう、あの頃と同じ自分はいない。だからこそ、この物語の、碇シンジという自分の分身の結末を、この目で見たい。
アスカ「シンジの事、好きだったんだと思う。・・でも、私の方が先に大人になっちゃった。・・・それだけ。」
無くした14年。その思いに決着をつけ、シンジ、そしてヴィレの人々は、最後の戦いへ赴く。
・「子と父」の間に流れるもの
前半部分を「無くした14年」の精算、そしてシンジが大人になるまでのステップとするのなら、中盤は「父と子」の決着だ。
新劇場シリーズは、ゲンドウとの関係性が非常に強調されてきた。
父の残したSDATは、「破」でシンジの手によって捨てられ、綾波レイが復元し、渚カオルの手によって完全に修復される。また、流れるトラックの番号は、「破」のマリとの出会いによって先へ進む。
「繰り返しの物語」であるエヴァを象徴するアイテムが、様々なキャラの手を渡り、シンジの元へ戻ってくる。
それは、「父との関係」が、切っても切れないことを同時に示している。
終盤、ついにシンジとゲンドウの、「親子対決」が展開される。だが、力で父に勝つことはできない。
シンジ「...父さんと、話がしたい。」
ゲンドウが人を捨て、世界を壊し、それでもかなえたかった、たった一つの願い。
それが、ゲンドウの精神世界の描写で、ついに明らかになる。
「・・孤独が好きだった。人に合わせるのが嫌いだった。本と音楽だけが、私に安らぎを与えてくれた。ユイはそんな私を受け入れてくれた。・・だが、ユイがいなくなった後、私は一人で生きていくのが怖くなった。・・初めて孤独が怖くなった。
ユイ! ユイ! ユイ!
・・子供は、自分への罰のように感じていた。子供にかかわらないことが、自分の贖罪であり、その方が子供にとっても良いと思い込んでいた。」
25年で、初めて「碇シンジ」の視点ではなく、父「碇ゲンドウ」の視点で語られる胸中。そこにあったのは、シンジの鏡写しのような、「他者への恐怖」と、「愛への渇望」。
「・・ただ、ユイのそばにいたかった。ユイの元で変わりたかった。・・ユイの胸で、泣きたかった。・・私は、私自身の弱さゆえに、ユイに会えないのか・・!!」
シンジ「その弱さを、認めようとしないからだと思うよ。」
この一連のシーンは本当に苦しかった。きっと誰もが、自分自身の親や、あるいは自分に重ねてしまったのではないか。
シンジが「Q」までそうだったように、他者への攻撃とは、つまるところ「恐怖」なのだ。自分が傷つくのが怖いだけ。でも、そうやって自分の弱さを認めない限り、他人の思いを受け取ることはできない。大人になることができない。
ゲンドウの心に踏み込こみ、その思いを受け取ることで、物語はようやく終わりへ動き出す。
・「現実」で生きていくために
心の世界でゲンドウを救ったシンジ。ここから先は旧作と同じ。「人類補完計画」の始まりだ。しかし、今回は違う。シンジが願ったのは、時の巻き戻しでも、世界の巻き戻しでもない。ただ、エヴァの要らない世界を願う。人の意志では巻き戻せない世界。一人一人が、自分の意志で歩いていく世界。それはつまるところ、「現実の世界」だ。
映像描写も、もはやアニメなのか実写なのかわからない、なんかもう滅茶苦茶なものに変わっていく。表現不可能だ。
フラッシュバックするアニメ版からの全てのタイトル。遂に回収される、「新世紀エヴァンゲリオン」という題名の意味。
「アニメーション」の世界から、「現実」に人々を還す。旧劇場では暴力的だったその表現が、丁寧に描き出されていく。
アニメーションは現実では無い。しかし、そこで感じたことを受け取めて、現実を生きることは出来る。
それが、自分の分身たる「碇シンジ」によって行われるのだから、視聴者としては感動せざるをえない。
思春期への別れ。
「エヴァ」というアニメーションとの別れ。
父と母への別れ。
恋心との別れ。
そして、現実の始まり。
「さよなら、全てのエヴァンゲリオン」。
ありがとう。本当に面白い作品だった。「シン・ウルトラマン」も非常に楽しみだ!!
まだまだミサトさんカッコ良すぎ泣いたとかカジさん嘘だろとか黒波本当に可愛かった、、悲しいとかカヲルって呼んでよリョウちゃんとか劇重感情突然爆発ガールサクラちゃん可愛いくない?とか実写になった瞬間の出ましたコレだよコレ感とか全裸首無しマネキンが画面を埋め尽くした時の衝撃とかマリエンド驚くけどめっちゃアリとか式波の考察当たってたやん考えた人凄えとか色々言いたいことはある!!
が、一旦ここまで!!皆、通常とIMAXと4DXで3回見ようね。